この文殊の森がある祐向山にはなんと、城が3箇所もあるのです。そのうちの一つが「山口城」といいます
山口城の築城には諸説あり、一番古いものは文治三年(1187)に美濃国守護となった梶原景時が赴任の際築城したとありますが、昭和50年に旧・本巣町が編纂した「本巣町史」によると、吾妻鏡や美濃明細記には「美作国」とあり、当時の書物は写本が多かったので美作を美濃と写し間違えたのではないかと否定的は見解が書かれています
平成7年に梅田薫 氏が著した「信長犬山美濃を平定」や石田明乗氏が著した「地籍図からみた大野町の城」によると、天文元年(1532)に地元の豪族であった古田氏の6代目 古田重安(正重)が築城したようです。
その後、7代目を古田吉左衛門重清が継いだようですが、羽柴秀吉の播磨・三木城攻めに参加し討死してしまいます(昭和12年・大衆書房編纂「本巣郡史」より)そのため古田重安の弟・古田重定の息子・古田重然が家督を継ぐのですが、この重然が有名な「古田織部」なのですね〜
17歳で家督を継いだ古田重然は元々土岐氏・斎藤氏に仕えていたのですが、永禄9年(1567)に織田信長が美濃に侵攻してくると織田氏に仕え使番を務めます。
その後、摂津茨木城主・中川清秀の妹と結婚すると、主に羽柴秀吉軍に配属され近畿から中国地方の戦線で活躍、荒木村重の謀反や明智光秀との山崎の戦いで中川清秀を羽柴秀吉軍に味方させるなど、中川家の軍艦として活躍しました。その功で天正13年(1585)山城国・西岡城主となったようです
また、古田の父・古田重定は勘阿弥と号して早くから千利休らと茶の湯を学んでいました。その影響もあって重然自身も茶の湯に造詣が深く、利休七哲の一人に数えられ、徳川秀忠の茶道指南役となりました
しかし、大阪の役(徳川家康vs豊臣秀頼)が勃発すると、長年の豊臣家への恩に報いる為に内通、豊臣家が敗れて滅亡すると元和元年(1615)父子ともに切腹したそうです。
文殊の森を登ってみた!
登っていくと「山口城址」の碑があります 城主「梶原景時」とありますね
さらに登って行きます。登山道は綺麗に整備されていてトレッキングには丁度いいですね
ここが中の城 祐向山には山口城も含めて4箇所も城があります。これは一城が攻められたとき、他の城から応援を出して敵を撹乱したり、攻城の邪魔をする為だそうです
ついに頂上 山口城址です ちょっとした平場になっていますね
実際の城は円形の要塞だったみたいですね