2014年09月27日

城まにあ【織田信長美濃侵攻編4】岐阜県大垣市墨俣 墨俣城

永禄4年(1561)斉藤義龍が死ぬと同時に美濃に攻め込み、森部の戦いで斉藤軍6000を破った織田信長は、そのまま北上し斉藤側の拠点・墨俣城を占領しそれを改修し居陣します。
さらに、廃城となっていた十九条城を占領して改修し、織田信長のいとこで犬山城主・織田信清の弟・織田信益を城主とします。

ここであれ?っと思う方がいると思います。
墨俣城は豊臣秀吉が一夜で作った城ではないの?

それが違うのです!
なんと、秀吉が作る前から墨俣城は存在したのです!!


昭和31年に旧・墨俣町が発行した「墨俣町史」によると、室町幕府第初代美濃国守護・土岐頼貞の五男・土岐頼連(入道して周済)が墨俣に築城し、居城として墨俣八郎と名乗ります。
観応元年(1350)土岐頼連は第2代美濃国守護・土岐頼遠の後を土岐頼康が継いだことに不満を抱き、頼貞の長男・土岐頼直、四男・土岐頼胤らと挙兵、蜂屋氏と原氏も加わりこぞって南朝側へにつき第3代美濃国守護・土岐頼康に対し反乱を起しました。(周済の乱)
この反乱は、尾張・美濃に広がる大反乱に発展しましたが、足利義詮が出陣し鎮圧、土岐頼連・土岐頼直は京都で処刑されます。

その後、墨俣城は主が居なくなったのですが墨俣自体が戦略・経済・交通の要所でありそこを抑えるため、長井氏などの重臣が城主として入ります。

そして、織田信長が美濃に侵攻した森部の戦いにおいても、斉藤軍の拠点として長井甲斐守・日比野下野守が6000の兵を率いて入城、森部の戦い後は織田信長が占領し西美濃進出の拠点とします。

このように、秀吉築城以前にすでに墨俣城はあり、織田方が占領しているのです!!


歴史研究家の中にも墨俣の一夜城を否定する人が結構いて、「織田信長の尾張時代」を書いた横山住雄氏らは一夜城否定派です。むしろ一夜城否定のほうが主流になりつつあります。

一夜城否定派の根拠はおおよそ以下の通りです
・一夜城が記載されているのは「太閤記」など豊臣秀吉を褒め称える物語が多く、少しの手柄を大げさに記載されていて信憑性がない、しかもその多くが江戸時代に書かれたものであり着色が多分にある。
・歴史資料である「信長公記」にはそのような記載はない
・永禄4年(1561)森部の戦い後に墨俣城を占領しており、一夜城を作る必要がない。
・森部・軽海の合戦後、西美濃衆手強いと認識した織田信長は方針転換し犬山から東濃へ侵攻している。
・当時の河川の流れを調べると、切り出した木材を墨俣で受け取るのは難しいのでは

というものでした

しかし、昭和53年 旧・墨俣町発行の「墨俣一夜城築城資料」には蜂須賀小六と前野長康が一夜城築城の打ち合わせをした手紙などが残っており、まったくのでたらめではなさそうです。

ここで私なりの考察ですが、

確かにその後の信長の動きからして墨俣城を拠点に攻めあがったとは考えにくい、むしろその後東濃に出兵したことから、西からの侵攻を防ぐとともに墨俣からの流通を止め、井口の町の経済を停滞させる。また、西美濃の豪族や味方した南濃の豪族の動きを監視する目的があったのでは?

だとすると墨俣城の機能強化が妥当ではないでしょうか?木下藤吉郎が行ったのは、築城ではなく改修ではないでしょうか?

そう思っていたときにWikipediaで「一夜城」を検索すると、「一夜城(いちやじょう)は、攻城などにおいて相手方の城に対する野戦陣地として構築される陣城のうち、非常に早く構築されたもののこと。」と定義されていました。
つまり、森部の戦い後、墨俣城が斉藤軍に奪い返されてしまい再攻略のために攻城陣地もしくは付城を作ったという可能性もあります。

墨俣の一夜城は物語のような華々しい手柄ではなく、信長にとっては「そこまでは・・・」というようなものだったかもしれません。

むしろもうひとつの一夜城「伏屋城」が本当に秀吉が作ったものであるならば、そっちのほうが戦略的にも立地的にも難しく重要だと思いますね。

現在の墨俣城

CIMG1011.JPG

昔、竹下首相がばら撒いた、ふるさと創生金で建てた天守があります


これはまったく歴史的根拠はありません。








posted by 塩谷建設株式会社 at 11:33| Comment(0) | 岐阜県大垣市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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