2015年03月20日

城まにあ【織田信長美濃侵攻編21】岐阜市 岐阜城1

織田信長は、斉藤道三以来美濃の国府として君臨していた稲葉山城を攻略しとうとう美濃を手に入れます
そして城の名前を「岐阜城」、城下町を「岐阜」と改め天下統一の一歩を踏み出すのです


そんな岐阜城は現在でも岐阜市のシンボルとして市民に愛されています

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聳え立つ岐阜城 岐阜市のほぼどこからでも見れるまさにランドマークです

岐阜城の記録で最古のものは、承暦3年(1079)「前九年の役」で戦功を上げた源義家が信望を集めると、それを快く思わない源国房(土岐氏の祖)・源重宗が兵を集め因幡山(稲葉山、現・金華山)に城を構えて立て籠もり叛旗を翻しました。(承暦濃州の乱)
源氏内での主導権争いでしたが、白河天皇「源国房・重宗追討の詔」を出し、源義家が7000の兵で攻めると源国房・重宗は敗退し、重宗は討死、国房は降伏し阿波へ流されます。戦後は源義家の弟・加茂二郎義綱が入ったようです。

建仁元年(1201)鎌倉幕府の政所令(後に別当)であり、十三人の合議制の一人でもあった二階堂行政が砦を築きました。その死後は娘婿の佐藤朝光が継いで城主となります。朝光は伊賀守に任じられると姓を伊賀氏と変えました。
建保3年(1215)に朝光が死去すると息子の伊賀光宗が城主となります。光宗は妹が鎌倉幕府第2代執権・北条義時の後室となっていたため外戚として活躍します。しかし、北条義時が死去すると、後室に入っていた妹と共に将軍を藤原頼経を廃して一条実雅にし、執権に甥の北条政村をつけようとが策しましたが、北条政子に阻まれ信濃に流されました(伊賀の変)
光宗の後は弟の伊賀光資が城主となり、姓を稲葉氏としたため、山の名前も「稲葉山」と呼ばれるようになりました。正元元年(1259)には二階堂出羽守行藤が居城したそうですがその後廃城となったようです。

応永19年(1412)守護代・斉藤利永が山頂の古城を修築して居城としましたが、文安2年(1445)加納城を築いて移ってしまいます。

享禄3年(1530)に長井長弘を討ち、天文8年(1539)に守護代・斉藤家を継いだ斉藤道三が山頂の古城を修復して居城とした。稲葉山城は度重なる織田・朝倉の攻撃にも落城しませんでした。
道三は家督と共に稲葉山城も息子・斉藤義龍に譲ります。義龍は弘治2年(1556)長良川の戦いで道三を討ち美濃を手に入れますが、永禄4年(1561)に病死してしまいます。その為義龍の息子・斉藤龍興が城主となりますが、永禄10年(1567)に織田信長によって奪われてしまいます。
以後、天正4年(1576)安土城に移るまで居城とし、移ってからは信長の長男・織田信忠が家督を譲られ住みました。
天正10年(1582)本能寺の変織田信忠が死去すると、清洲会議の結果、信長の三男・織田信孝が入りましたが、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで破れ自刃しました
賤ヶ岳の戦い後、羽柴秀吉池田恒興を美濃に封じた為、岐阜城には長男の池田元助が入ったのですが、天文12年(1584)小牧長久手の戦い池田恒興・元助父子が討死すると次男の池田輝政が入り6年間在城しました。

天正18年(1590)小田原征伐後、池田輝政が三河吉田へ転封されると羽柴秀吉の養子・羽柴秀勝が城主となるが、文禄元年(1592)文禄の役に出陣し朝鮮で病没した

続いて織田信忠の子・織田秀信が城主となるも、慶長5年(1600)関が原の戦いで東軍の先鋒部隊・池田輝政・福島正則らに落された
慶長6年(1601)奥平昌信が加納に封ぜられると、天守・石垣らが加納城へ移されたため廃城となった

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現在の天守は「彦根城」をモデルにした模擬天守

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ところどころ、かつての石垣のような部分もあります。
posted by 塩谷建設株式会社 at 22:10| Comment(0) | 岐阜県岐阜市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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