2014年12月23日

城まにあ【織田信長美濃侵攻編12】愛知県犬山市 犬山城 

居城を小牧山城に移したことで織田信清の支城を次々と降伏させ、信清の居城・犬山城を丸裸にした織田信長は、満を持して犬山城攻略にかかるのですね

織田信清の居城・犬山城は文明元年(1469年)当時尾張上四郡の守護代であった織田伊勢守家当主・織田敏広が美濃の斎藤氏に備える為に弟・織田広近に犬山城の前身となる木ノ下城を築かせ守備させました。
文明元年は応仁の乱真っ最中だったので、ここでの斎藤氏は斉藤道三ではなく斉藤妙椿だったと思われます。

その後、天文6年(1537)に斉藤道三と激しく戦っていた織田信秀が斎藤氏に備える為に弟・織田信康に木ノ下城を現在の位置に建て直させ守備させました、これが犬山城です。
ここで、あれ?木ノ下城は織田伊勢守家の城だったのになぜ信秀の弟が持ってるのでしょうか?
それは、当時織田伊勢守家の当主だった織田敏信が美濃・斉藤家の内乱・船田合戦で戦死すると息子・織田信安が後を継ぎました。しかし幼少であったので家を継ぐには荷が重いと、織田信秀が後見人として自身の弟・織田信康を送り込み木ノ下城主にすることに成功したようですね。
さすが、尾張の虎

しかし、天文16年(1547)美濃・斉藤道三との加納口の戦いで織田信康は戦死してしまい、息子・織田信清が跡を継ぎます。信清は加納口の敗戦によって織田信秀の勢力が弱くなったことと、だまし討ちをする信秀・信長に信用が置けなくなったこともあり、織田信秀から離れて独自の勢力となっていたのです。



永禄7年(1564)じっくり時間をかけて支城を攻略し、織田信清を弱体化させた織田信長は機は熟したとばかりに総勢6000の兵で犬山城へ攻め込みます。
丸裸だった犬山城は丹羽長秀・柴田勝家・佐久間信盛らの猛攻にさらされ、鵜沼城の大沢次郎左衛門正秀からの援軍もむなしくわずか2刻半(約5時間)で陥落します。
織田信清はわずかな供回りを連れ甲斐・武田家へ逃亡し、ここに尾張統一が成ったのです!!


織田信長は犬山城攻略後、美濃・各務原の伊木山城・鵜沼城を攻略し、坂祝から関方面へ軍を進めます。
その際、犬山城は重要な尾張国内の補給拠点となるため乳兄弟であり信任も厚い 池田恒興が入ります。
美濃を奪取した後も甲斐武田家への備えとして池田恒興が守りますが、武田信玄が死んだ後の天正9年(1581)武田家に人質として捕られていた信長の四男・織田信勝武田勝頼によって返還されると、犬山城主とします。

天正10年(1582)に本能寺の変で織田信勝が討死すると織田信雄の所有となり、家臣の中川定成が入りますが、天正12年(1584)突如としてかつての城主であり賤ヶ岳の戦いで功を上げ美濃1国の主となっていた池田恒興が襲い掛かり奪取します。これが原因で「小牧・長久手の戦い」が起こり戦中は羽柴秀吉が拠点としました。

戦後は織田信雄の手に戻るのですが、豊臣秀吉が天下統一後に行った国替えに不平を言い織田信雄が失脚すると信雄の旧領が豊臣秀次に与えられた為、秀次の父・三好吉房が城主を勤めました。しかし、文禄4年(1595)豊臣秀次が謀反の罪により切腹させられると連座して改易となったため、石川貞清が城主となりました。豊臣秀吉死後、慶長5年(1600)に起こった関が原の戦いで石川貞清は西軍に属したため戦後改易、慶長6年(1601)に徳川家康の四男・松平忠吉が尾張清洲城52万石を与えられると、犬山城には小笠原吉次・平岩親吉と忠吉の附家老がはいり、元和3年(1617)成瀬正成が城主になると以後、成瀬家9代の居城となりました。
最近まで成瀬家の個人所有物だったらしく非常に珍しい例だそうです
現在は財団法人が管理しているようですね

現在の犬山城
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この城は室町末期か江戸初期に建てられた物がそのまま残っている非常に貴重な天主で日本最古の天主であり、昭和10年(1935)に国宝に指定されています
日本で国宝となっている城は 姫路城・彦根城・松本城・犬山城の4城しかないそうです


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天主からみた鵜沼城 

目と鼻の先ですね。ここを守り続けた織田信清は相当緊張感があったでしょうね〜





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2014年12月09日

城まにあ【織田信長美濃攻略編11】愛知県小牧市 小牧山城

犬山城・織田信清が反旗を翻し、於久地城攻めもうまくいかない織田信長は思い切った手に出ます。

それは、本拠地の移転でした。しかも今回の移転は、すでに存在する大都市への移転ではなく、何も無い土地に城、家臣団の家屋敷から城下町の商店、住人すべてを引っ越す大事業なのです。

そんなことをする戦国大名はいません。桓武天皇ぐらいです

しかも移転場所は織田信清との国境である小牧山!
非常に危険です。そこまでして本拠地を移転にこだわるのは、より美濃に近い場所に本拠を移し、これから美濃国内で得た拠点や織田家に寝返った地侍が斉藤軍に攻められたとき、早急に援軍を送れる体制をとるためどうしても必要だったのです。

しかし、住み慣れた清洲城を捨て何も無い小牧山に移ることに、家臣団・住人からの強固な抵抗が予想されました。そこで、織田信長は、最初は小牧山よりもさらに北にある丹羽郡二ノ宮山(現・犬山市)に移すと布告し、家臣団が大反対をするといったん収め、皆の意見を聞いて再考したと小牧山移転を布告したそうです。その為、小牧山移転に反対も無くすんなり決まったそうです。

築城の普請奉行は丹羽長秀、この丹羽長秀は織田5大将の中でもあまり目立った活躍は無かったのですが、信長はこの丹羽長秀を一番信頼していた節がありますね。
この後の美濃攻略の際、丹羽長秀を別働隊の大将にして軍勢を預けますが、他にも柴田勝家佐久間信盛・林通勝といった父・信秀のころからの重臣がいるのにもかかわらず長秀を大抜擢しています。この時点で一軍を与えられその方面の攻略を任されたのは元々伊勢出身で事情に明るい滝川一益の伊勢方面軍と丹羽長秀の東美濃方面軍ですが、滝川一益の伊勢方面軍は攻略よりも北畠氏・関氏への備えと、信長の伊勢攻略の下準備が担いで戦闘よりも調略・謀略が中心だったので丹羽長秀のほうが主力だったようです。
ここでも信長が初めて建てる小牧山城の普請奉行に丹羽長秀を抜擢します。城の普請奉行は城の設計・施工を管理するので、その城の弱点も全部把握できます。そのため普請奉行には家中で一番信頼できる人を任命するのです。ちなみに丹羽長秀は安土城の普請奉行も務めますし、信長が岐阜から京都へいく際の中継地点である近江・佐和山城を任されたりしています。

永禄6年(1563)小牧山城が完成し150年間栄えた清洲から国府が移動します
すると、織田信清の居城・犬山城の支城が、こんなに敵の居城が近くては攻められた場合に犬山城の援軍が間に合わないと次々と寝返りはじめるのですね〜。

してやったりの織田信長、戦をせずに犬山城を丸裸にすることに成功します。

その後小牧山城は織田信長が美濃を攻略するまで居城としましたが、美濃を攻略し岐阜城に居城を移した永禄10年(1567)に廃城となりました。


現在は昭和43年に地元の名士・平松茂さんという方が私財を投じて建てた天守閣があります
この天守は豊臣秀吉が建てた京都・聚楽第をモデルにしたそうですね。
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山全体が巨大な要塞となっていたようですね。現在は麓の曲輪が広場になっています
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登山道の途中には土壕の跡があったりしてなかなか興味深いですね
小牧長久手の戦いでも陣地になったようなので、どちらの時代のものかはわからないですね
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posted by 塩谷建設株式会社 at 11:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月05日

城まにあ【織田信長美濃攻略編10】 愛知県丹羽郡大口町 小口城(於久地城)


永禄5年(1562)犬山城・織田信清が謀反を起こすと、織田信長はすぐさま犬山城の支城である於久地城の攻略にかかります。

於久地城は長禄3年(1459)織田広近(岩倉城の織田伊勢守家一門)によって築城されました。
文明元年(1469)に木ノ下城(犬山市)を建設しそこに移るまで織田広近の居城となっていましたが、木ノ下城築城後はその支城となりその後、広近が隠居するとその隠居所となりました。さらに犬山城ができるとその支城となりました。


永禄5年(1562)於久地城は織田信清の身内である中島豊後守が守っていたのですが、信長はこの中島豊後守を器量人と見込んでおり、殺すに惜しい人物であると思っていました。なので、中島と仲のよかった丹羽長秀に調略を命じますが中島は拒絶、やむなく武力で制圧しにかかります。

夜も開けきらない桜雲の中、小姓衆を先駆けとして惣構を打ち破り乱入しますが、中島豊後守もよく防ぎ双方に多数の死者が出ます。特に信長が目を掛けていた小姓・岩室長門守がこめかみを打ち抜かれて討死。信長はその死を後々まで惜しんだといいます。(於久地の合戦)

結局、織田信長は於久地城を落すことができないまま引き上げたのですが、その後も丹羽長秀・蜂須賀小六に調略を継続させます。信長は相当中島豊後守を認めていたようですね

結局、その後に信長がやったあっと驚くことで戦意を喪失し、織田信清のもう一人の重臣・和田新助と一緒に信長に降ることとなりますが、その際、信長は大いに喜び中島豊後守に褒美を与えています。

その後、犬山城が墜ちると小口城も廃城となったようです。

中島豊後守織田信長に仕え一緒に降った和田新助とともに、大河内城攻めや 長島一向一揆との戦いなど、伊勢方面で活躍したようです


現在の小口城
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現在は小口城祉公園として整備され、小口城もきれいに復元されています

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すごくきれいに復元されているのですが、特筆すべきは、天主閣などつけず昔の城屋敷風にし、史実に無いものを勝手に復元したりしていないことです

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素晴らしい。
この事業を行った大口町長さんに敬意を表します

あんたは偉い!




posted by 塩谷建設株式会社 at 15:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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