
西運寺近辺
平成22年に地縁団体大場自治会がまとめた「ふるさと大場」によると、
土岐氏の子孫 岡田左馬助頼時が居城としていたようです
「養老郡志」には岡田頼時は大葉城のいた後、安八郡の結城へ移り、さらにその後、前田利家に仕えたそうです
岡田左馬助頼時に関して、その人物を紹介する資料はありませんが、おそらく美濃・岡田氏の一族ではなかったのかと思います。
美濃・岡田氏は、源氏の庶流であり、鎌倉時代まで美濃で勢力のあった山田氏の庶流です。
美濃・山田氏は承久の乱で惣領・山田重忠が後鳥羽上皇に味方し大敗。一族の大勢が討死した為、勢力を大幅に弱めました。。生き残った一族は北条得宗家に忠誠を誓って地頭・御家人として細々と暮らしていたようです
そんな中、山田重忠の曾孫・山田泰時の子・時親が美濃国大野郡岡田郷を拠点とし岡田氏を名乗ったのが美濃・岡田氏の始まりだそうです
その後、鎌倉幕府倒幕の際は後醍醐天皇に味方し、南北朝時代は同族である足利氏に従います。室町時代、本家・山田氏は弱くなった勢力がさらに弱くなってとうとう断絶するのですが、岡田氏は室町幕府の有力御家人・斯波氏に仕え活躍します
斯波氏に従っていた関係で、応仁の乱では山名宗全を支援し戦功を上げます。応仁の乱後、斯波氏が勢力を弱めると、尾張国守護代・織田家に従い、尾張に移住します。天文11年(1542)織田信長の父・織田信秀が今川義元と激突した「小豆坂の戦い」では岡田重善が活躍し「小豆坂の七本槍」の一人に数えられました。
その後、織田信長に従って各地を転戦。織田信長野死後は岡田重孝が織田信雄に従い「3家老」と呼ばれるほど重用されていましたが、天正11年(1583)小牧長久手の戦いの前に羽柴秀吉の陰謀で内通を疑われ、同じ「3家老」の津川義冬・浅井長時と共に手打ちにされてしまいました。
岡田重孝のあとを、加藤清正の家臣であった岡田善同(ただあつ)が継ぎ、その後徳川家康の旗本になって5500石の知行を与えられたようです
岡田頼時はこの一族で、前田利家に従ったのはおそらく前田家が豊臣秀吉によって知行を増やされ人手が足りないときに誘われたのではないでしょうか?だとすると1590〜1595くらいでしょうか?