2016年12月14日

城まにあ 岐阜県養老郡養老町 大葉城

岐阜県養老郡養老町に流れる五三川近く 西運寺近辺にかつて大葉城という城があったそうです

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西運寺近辺


平成22年に地縁団体大場自治会がまとめた「ふるさと大場」によると、
土岐氏の子孫 岡田左馬助頼時が居城としていたようです

「養老郡志」には岡田頼時は大葉城のいた後、安八郡の結城へ移り、さらにその後、前田利家に仕えたそうです

岡田左馬助頼時に関して、その人物を紹介する資料はありませんが、おそらく美濃・岡田氏の一族ではなかったのかと思います。

美濃・岡田氏は、源氏の庶流であり、鎌倉時代まで美濃で勢力のあった山田氏の庶流です。
美濃・山田氏は承久の乱で惣領・山田重忠が後鳥羽上皇に味方し大敗。一族の大勢が討死した為、勢力を大幅に弱めました。。生き残った一族は北条得宗家に忠誠を誓って地頭・御家人として細々と暮らしていたようです

そんな中、山田重忠の曾孫・山田泰時の子・時親が美濃国大野郡岡田郷を拠点とし岡田氏を名乗ったのが美濃・岡田氏の始まりだそうです
その後、鎌倉幕府倒幕の際は後醍醐天皇に味方し、南北朝時代は同族である足利氏に従います。室町時代、本家・山田氏は弱くなった勢力がさらに弱くなってとうとう断絶するのですが、岡田氏は室町幕府の有力御家人・斯波氏に仕え活躍します
斯波氏に従っていた関係で、応仁の乱では山名宗全を支援し戦功を上げます。応仁の乱後、斯波氏が勢力を弱めると、尾張国守護代・織田家に従い、尾張に移住します。天文11年(1542)織田信長の父・織田信秀が今川義元と激突した「小豆坂の戦い」では岡田重善が活躍し「小豆坂の七本槍」の一人に数えられました。

その後、織田信長に従って各地を転戦。織田信長野死後は岡田重孝が織田信雄に従い「3家老」と呼ばれるほど重用されていましたが、天正11年(1583)小牧長久手の戦いの前に羽柴秀吉の陰謀で内通を疑われ、同じ「3家老」の津川義冬・浅井長時と共に手打ちにされてしまいました。

岡田重孝のあとを、加藤清正の家臣であった岡田善同(ただあつ)が継ぎ、その後徳川家康の旗本になって5500石の知行を与えられたようです

岡田頼時はこの一族で、前田利家に従ったのはおそらく前田家が豊臣秀吉によって知行を増やされ人手が足りないときに誘われたのではないでしょうか?だとすると1590〜1595くらいでしょうか?

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2016年01月17日

城まにあ 岐阜県養老郡養老町 烏江城

1966年に 大類 伸 氏が著した「日本城郭全集7」によると
岐阜県養老郡養老町烏江にある、近鉄烏江駅の南側一帯にかつて「烏江城」という城があったそうです

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近鉄烏江駅

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近鉄烏江駅南側
現在は集落となっていて、城らしきものはありません

寛永3年(1626)烏江善正寺の住職・鈴音が烏江城の絵を描いたとき、
「この絵図は濃州多芸郡石津庄烏江城にまつわる伝記ならびに『古老物語』を参考に録したもので、浅井備前守長政が領して当城を守らせ交代の武士を置いたのだが、後に織田信長に滅ぼされた」
と記しています。

また、養老町教育委員会が運営するHP「養老町の歴史文化資源」では、「善正寺文書」に文明4年(1472)の頃には現在の善正寺住職の祖先である吹原久内左衛門重時善正が城主であったと記載があり、城の位置も現在の杭瀬川と牧田川の合流地点より少し北の牧田川河川敷内にあったと記載されています。

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近鉄烏江駅を南に行くと烏江善正寺があります。ここの住職が子孫で絵や記録を書いたようですね

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近鉄烏江駅の南側すぐの堤防に「烏江湊跡の碑」がありました。
湊とは川に作った海で言う港のことで、湊は軍事的な拠点であると共に、経済的にも豪族の大事な収入源でした。烏江は杭瀬川と牧田川の合流地点にあり、江戸時代には船附湊 栗笠湊 と共に三大湊とよばれたほど、美濃と尾張と近江をつなぐ物流の拠点でした。
浅井長政は水運の利権を押さえるために、烏江に城を築いて代官を置いていたのではないでしょうか。
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2016年01月03日

城まにあ 岐阜県養老町 金谷城

「養老の滝」伝説で有名な岐阜県養老町に金屋という地区があります

金屋地区には名神高速道路が通っているのですが、高速道路沿いに御井神社という神社があります

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御井神社入り口

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御井神社

その境内から高速道路にかけてがかつて金谷城という城だったようです

大類 伸 氏が1966年に著した「日本城郭全集7」によると、
築城年代は不明です。
記録上は「伊藤系譜」に応永24年(1417)伊藤修理助祐盛美濃国守護・土岐頼等(年代的に土岐持益か)に仕え金谷村城に住した、とあるのでこの頃築城したのでしょうか?

伊藤祐盛の子・伊藤弥三郎祐定の代に応仁の乱(1467)が起こり、土岐政房に従って活躍します。永正年間(1504頃)その褒美として美濃国内に990貫(約2000石)の領地を与えられて金谷村の城に住すと記録されています。

その後、美濃国・伊藤氏は関ヶ原の合戦の際西軍に味方し、東軍に頑強に抵抗したそうです。
その頃、金谷城は廃城となったようです。

金屋は鋳物でも有名で、現地には鋳物師の居住地としての碑があります

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posted by 塩谷建設株式会社 at 10:36| Comment(0) | 岐阜県養老町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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