2015年06月07日

城まにあ 岐阜県安八郡安八町 氷取城

岐阜市と大垣市の間、揖斐川と長良川に挟まれた地域に安八町という町があります

その真ん中やや南のあたりに名森小学校があり、その南側の土地に「氷取城(こりとりじょう)」があったことを示す案内板があります。「こおりとり」ではなく「こりとり」だそうです。Y様ご指摘ありがとうございます。

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こんな感じ


いろいろな文献をみても、氷取城の築城年・築城者は不明となっていますが、「美濃明細記」には不破壱岐守が竹鼻城に入城した際、森部城とともに支城として築城したとあります。
不破壱岐守とは不破源六広綱のことであり、竹鼻城に入城したのは天正8年(1580)であったので、氷取城も天正8年頃に不破広綱が築城したようですね。
不破広綱は氷取城を築くと弟の不破大炊頭に守らせました。

天正12年(1584)羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が対立し、小牧長久手の戦いが勃発すると、竹鼻城の不破広綱は非常に悩んだ末に織田信雄に味方します。徳川家康に家康の本拠地岡崎を狙う奇襲作戦を見抜かれて、池田恒興等を失う大敗を記した羽柴秀吉が、戦略を変えて美濃・加賀野井城(岐阜県羽島市)に攻めかかりこれを落すと、次に不破広綱の守る竹鼻城を水攻めにするのですね。竹鼻城が抵抗むなしく落ち、不破広綱が伊勢に退去すると氷取城も落ち、その時廃城となったようです

現在は名森小学校南の広場に案内板がありますね
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案内板はこんな感じ

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ひっそりとしています
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2015年05月21日

城まにあ 岐阜県安八郡安八町 牧村城

岐阜市と大垣市の間にある安八町の牧という地域に「円長寺」という寺院があります

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ここの入り口に石碑があり、ここがかつて牧村城という城であったことを示しています

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昭和50年に安八町が発行した「安八町史」によると、牧村城は古くから安八郡の地頭であった牧村氏の居城だったそうです。

しかし、天文20年(1551)源頼政の子孫で、三河国額田郡の寺沢城主・大河内左衛門佐元綱三男・大河内源次郎政忠牧村土佐守が滅ぼされ、代わって大河内政忠が地頭となり名を牧村強之助と名乗って牧村城を居城とし、稲葉伊予守通長に仕えました
牧村強之助の子孫に牧村牛之助政倫という武将がいますが、これは織田信長との軽海合戦の際、斉藤龍興側の大将となり、織田信長の西美濃進攻を止めた牧村牛之助のことではないでしょうか
永禄10年(1567)に斉藤龍興が美濃を追われると織田信長に仕え、牧村武蔵守と名乗りますが、元亀3年(1572)頃亡くなったようです

その後を、稲葉重通長男・稲葉利貞を養子に迎えます。利貞は牧村兵部大輔利貞と名乗ります。
利貞は茶道に優れ、千利休七哲の一人となります。
天正18年(1590)牧村氏は伊勢田丸城に転封となり、このころ廃城となったのではないでしょうか
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2015年05月05日

城まにあ 岐阜県安八郡輪之内町 福束城


岐阜県唯一の新幹線の駅がある羽島市の東に「輪之内町」という小さい町があります。
輪之内町の東側、揖斐川沿いに福束という地名があり、そこにある「福満寺」がかつての「福束城」だったそうです。(福満寺は一部で、現在は城址のほとんどが揖斐川内になってしまった)

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昭和63年に輪之内町が発行した「復刻版 輪之内町史」によると、応永21年(1414)6代目美濃国守護 土岐左京太夫頼益の命で福束蔵人十郎益行が築城し居城として伊勢との交通の要としたそうです
正長元年(1428)から丸毛中務小輔光慶が居城とした。(押領か?)光慶は3代目美濃国守護 土岐頼康の従兄弟で明智五郎頼高の子で、福束城はその後 丸毛三郎左衛門光益→丸毛河内守光長と継いだが、文明2年(1470)光長のとき一時安八郡脇田へ移るが、その子 丸毛三郎兵衛兼行は再び福束城へ戻りました。
兼行の後は丸毛兼定→丸毛三郎兵衛光兼(兵庫頭・晩年は河内守)と続きました。光兼は斉藤龍興に属し、織田信長の墨俣城築城(改修?)阻止等で活躍していましたが、永禄7年(1564)織田信長により斉藤龍興が美濃を追われると織田信長に随身しました。その際、福束城より今尾城へ移転を命ぜられましたが、織田信長が本能寺の変で死亡すると羽柴秀吉に仕え、天正11年(1583)に福束城に戻り2万石を領すと共に、今尾城には市橋下総守長勝が入りました
文禄2年(1593)に丸毛光兼が死去すると、跡を子の丸毛三郎兵衛兼行が継ぎました
豊臣秀吉死後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で丸毛兼行石田三成に応じ西軍に参加、福束城に立て籠もります。西軍の戦略として大垣城を基地として、東は岐阜城の守備力を信頼し、南は福束城を通じて川筋を確保し南濃を制圧、そのまま伊勢・尾張へ進攻するため伊勢路との連絡を企図したのです。
福束城に立て籠もった丸毛兼行に東軍先鋒部隊で南濃制圧部隊の福島正則配下 横井伊織が旧知だったので降伏するよう説得に向かうが、かえって敵対心を燃やしてしまいます。仕方が無いので横井伊織今尾城主・市橋長勝 高須城主・徳永法印昌寿と共に攻め寄せました。
それに対し丸毛兼行大垣城主・伊藤彦兵衛 長松城主・武光式部少輔棟忠、石田方からの援軍・前野兵庫頭 高野越中守 武藤右京 雑賀内膳とあわせて3000の兵で迎え撃ち大川を隔てて合戦したが勝負はつきませんでした。そこで、市橋下総守長勝の臣 金森平左衛門 竹田四郎左衛門に夜半に川を渡らせ敵陣の背後に火をかけ混乱させた所を一気に打ち破った。
丸毛兼行は大垣城へ逃げ、福束城は市橋下総守長勝が占領 福束城は関ヶ原の合戦後廃城となりました。

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現在の福束周辺 堀の跡でしょうか? 
福束城のほとんどは揖斐川堤防内ですが、集落には城の名残っぽいものがありました


posted by 塩谷建設株式会社 at 19:58| Comment(0) | 岐阜県安八郡(安八町・神戸町・輪之内町) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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