2016年07月07日

城まにあ 岐阜県瑞穂市 只越城

JR東海道本戦が長良川を横断するその瑞穂市側、昭和工業叶枢芻H場の付近に瑞穂市教育委員会が立てた只越城址の看板かありました

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案内板

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城址を示す杭

大類伸 氏が1966年に著した「日本城郭全集7」によると
天文・弘治の頃(現地案内板には永禄まで)、齋藤氏西美濃十八将の一人とよばれた竹腰攝津守守久の居城であったようです。
その後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時は、西軍・石田三成に味方した土豪・広瀬重郎兵衛正好が居城していたようです。

昭和54年に管英志 氏が著した「日本城郭大系9」中、別府城の説明で別府城主・広瀬信正が文亀年間(1501〜1504)に別府城を捨てて東に移ったとありますので、この頃広瀬氏は只越に移ったのかもしれません。

その後、竹腰守久が只越城を造り広瀬氏も只越城を詰城とした一団に所属していたのですが、織田信長の美濃進攻に伴い竹腰氏が退去すると広瀬氏が占拠したのではないでしょうか。
勝手な想像ですが・・・
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2015年05月10日

城まにあ 岐阜県瑞穂市 本田城

岐阜県瑞穂市にある穂積北中学校の北側道路を西へまっすぐ進むと、円融寺というお寺の手前にこんもりとした雑木林があります

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この雑木林がかつての本田城の跡だそうです


明治26年に梅田晋一氏が編集した「美濃古城史」によると、天文年間(1532〜1555)は日根野備中守弘就の居城であったそうです
日根野備中守弘就は、父・日根野九郎左衛門の代に和泉(大阪府南部)から移住し斉藤道三に仕えましたが、道三の子・斉藤義龍に重用され頭角をあらわしました。
弘治元年(1555)斉藤義龍の命で義龍の異母弟・斉藤孫四郎・喜平次を斬殺し、斉藤義龍が実権を握るとその功で重臣に列し、義龍死後もその子・斉藤龍興に重用されました。
しかし、当時斉藤家には日根野弘就 氏家直元 安藤守就 竹腰尚光 日比野清実 長井衛安 という6人の重臣が居ましたが、氏家・安藤に稲葉を加えた西美濃三人衆と日根野らは折り合いが悪く、日根野が織田家への内通の疑いをかけられると浅井長政に西美濃三人衆の領地へ出兵を促したり、永禄7年(1564)安藤守就竹中半兵衛が稲葉山城を占領した際には斉藤龍興共々退去させられたりと度々権力争いをしていました。これが、後々西美濃三人衆の裏切りにつながるのですね〜
日根野弘就は斉藤氏が滅亡するまで織田信長に抵抗し、滅亡後は今川氏真(今川義元の息子・駿河 静岡県)浅井長政(近江 滋賀県)長島一向一揆(北伊勢 三重県)と主を変え最後には織田信長に仕えました。

日根野弘就退去直後の記録がないのですが、天正10年(1582)には安藤守就の臣(一族か) 稲葉長右衛門が入っていたと記載があります。しかし、安藤守就は天正8年(1580)に武田勝頼に内通した疑いで追放されているので、この入ったというのは北方合戦(安藤守就が本能寺の変の混乱に乗じ失地回復を目論んだ反乱)の際奪って入城したのか、それとも安藤守就が追放されても稲葉長右衛門は稲葉一鉄の家臣となり(安藤守就追放後、その領地などは稲葉一鉄の預かりとなっていた)本田城に入城したかは不明です。
しかし、稲葉長右衛門は北方合戦で安藤守就に味方して糸貫川で討死してしまいます。
その後、天正14年(1586)豊臣秀吉の家臣 寺西備中守直次が九州征伐の後方支援の功で、美濃国本田城を拝領しました。寺西直次はもともと斉藤氏の家臣だった寺西駿河守の息子でした。斉藤龍興滅亡後から木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕え、主に後方支援(食料・武器調達、兵員確保など)や占領地の統治等で活躍しました。本田城以外にも越前や近江などで領地をもらい、豊臣政権下で1万石を領する大名となっていました。
慶長5年(1600)関が原の合戦では、徳川家康の会津討伐に従軍していましたが、石田三成が挙兵したと聞くと親友の氏家行家の桑名城を守るべく引き換えしたのですが、西軍の大軍を前にし西軍に参加を決めます。
関ヶ原の合戦で石田三成の西軍が敗れると寺西直次徳川家康によって改易(領地没収)されてしまいます。
(このころ本田城廃城か?)改易後は加賀の前田利長に家臣として誘われ1500石の家臣となりました。

現在の本田城は、雑木林となっており、中に人家があるようです。地元の人の話では「昔の庄屋」さんの家だったそうです
しかし周辺には池や川が囲うようにあり、城だった面影が残っているようです
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2014年07月19日

城まにあ 岐阜県瑞穂市 十七条城

合併まえの旧・巣南町役場を東に進み、川を渡って桜コンクリートさんの工場の北東に熊野神社があります。

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この神社を北端にして南側に十七条城という城があったそうです

1992年 林春樹氏が監修した 「図説 美濃の城」 によると

室町時代初期、初代美濃国守護・土岐頼貞は七男の2代守護・土岐頼遠を長森城に入れると、長子・土岐頼直を方県郡福光(岐阜市長良)に、四男・土岐頼胤を本巣郡船木(瑞穂市)に、五男・土岐頼連(周崔)を安八郡墨俣に、六男・土岐頼清を池田郡小島(揖斐川町)に、八男・土岐頼仲を加茂郡麻生に配し、府城となった長森城の防備を固めました。このとき延元2年(1337)土岐(船木)四郎頼胤によって築城されました。
しかし、船木四郎頼胤は暦応元年(1338)病死してしまいます。

土岐氏後の城主は二階堂三蔵・二階堂安衛門父子が入った後、仙石権左衛門秀豊が入りますが、嘉吉2年(1442)秀豊が病死すると一時空城となります。

そこで、隣地である美江寺城主・和田氏が一族の和田五郎兵衛利詮を入れて取得しますが、天文11年(1542)和田氏は土岐頼芸に味方して斉藤道三と戦った為、斉藤道三に攻められ美江寺城と共に落城します。

永禄元年(1558)大野郡清水城(揖斐川町)城主・林通忠長子・林正長が空城となっていた十七条城を修築して清水城から移ります。正長の後を継いだ嫡男・林玄蕃が永禄5年(1563)の軽海合戦で討死したので、二男・林惣兵衛政秀が継ぎます。
この頃、林家は美濃三人衆の一人安藤家に属していましたが、天正八年(1580)織田信長安藤守就を以前武田家に内通した罪により追放し、所領を稲葉一鉄に預けたので林政秀は保身のために稲葉一鉄の配下となり、嫡男・林通具と一鉄の孫を婚姻させ、さらに次男・林市助正成を養子に出し両家の関係を深めることに努力しました。この稲葉家に養子に出された林市助正成が、後に春日局の夫になる稲葉正成なのです。

十七条城跡の熊野神社境内にも記念の石碑があります。
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林政秀が死ぬと嫡男・林通具が継ぐのですが、近江瀬田で討死したため林権兵衛政貞が継ぎます。江戸時代になり千余石の家となり尾張・徳川義直に仕えるも、その子・林六郎左衛門正辰に嗣子が無かったため廃絶となりました

現在では熊野神社境内に立て看板があります
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熊野神社南の住宅地にも石碑があるそうですが、確認できませんでした。
posted by 塩谷建設株式会社 at 10:30| Comment(0) | 岐阜県瑞穂市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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