永禄8年(1565)織田信長が犬山城を攻略し尾張を統一すると、加治田城(岐阜県関市)の佐藤忠能が織田信長に内通します。そのため、加治田城が孤立しないよう犬山城から加治田城までの間にある城を攻略するため東美濃に侵攻します。
この東美濃侵攻には佐藤忠能支援の目的だけではありませんでした。このころ織田信長に圧されぎみの斉藤龍興は、織田をけん制するために甲斐・武田信玄に近づき支援をしてもらおうとしていました。
そこで、東美濃に進出し、斉藤と武田の連絡を分断するとともに、武田家と対峙している織田と婚姻を結び同盟関係にあった恵那・遠山家との連絡・連携を密にする目的があったのです。
まず織田信長は伊木城の伊木清兵衛を羽柴秀吉に調略させ(城まにあ 伊木城参照)、鵜沼城の大沢和泉守を攻略します(城まにあ 鵜沼城 参照)そして鵜沼城を本陣として総大将・丹羽長秀、先陣・河尻与兵衛鎮吉とし、さらに東の猿啄城を攻めました
昭和56年に坂祝町教育委員会から発行された「猿啄城史」によりますと、猿啄城は築城年は不明ですが、応永14年(1407)西村豊前守善政が城主であったという資料が残っているそうです
嘉吉元年(1441)西村善政は、自身が創建した大泉寺の正月に斎会にわずかな供回りで参加した隙を、かねてから猿啄城を狙っていた土岐一族である田原左衛門頼吉につかれ、猿啄城を攻められ落城、善政は討死します。
その後廃城となっていましたが何代か後の田原左衛門(代々名前を世襲か)が築城しなおし田原家の居城となっていました。
しかし、天文16年(1547)そのときの当主であった田原左衛門が大泉寺へ行った隙を突いて一族の家臣であった多治見修理が謀反を起こして攻め込み田原氏を滅ぼします
まさに西村家から田原家が奪った方法そのままで田原家は滅ぼされてしまうんですね〜
因果応報です
猿啄城を奪った多治見修理は、それ以後18年在城し、弘治2年(1556)の長良川の戦いでは斉藤義龍側に名前があります。
猿啄城を攻めた丹羽長秀と河尻鎮吉は、天然の要害であった為に攻略は難航しましたが多勢に無勢だった為に多治見勢は力尽きて落城。多治見修理は家族・家臣を残して逃走。敗残兵は堂洞城(岐阜県関市)へ逃げ込みました。その際、家臣の多治見与蔵は三国志の趙雲のごとく、幼君を抱いて敵中を突破した逸話があります。
猿啄城を攻略した織田信長は戦勝を記念して勝山城と改めました。そして、先陣として活躍しました河尻与兵衛鎮吉(後の河尻秀隆)を城主とします。その後、河尻秀隆は天正3年(1575)武田家に落ちた岩村城の攻略に大きな功があり、天正10年(1582)まで岩村城主として5万石を領します
勝山城は河尻秀隆が岩村城に居を移したことと、対武田家の軍事的な拠点としては不要となったため廃城となりました
坂祝町唯一の城、猿啄城 攻略してみました!!
坂祝町を東西に走る国道21号線沿いにある看板に沿って車を進めると案内板があります
この近くまでは車でいけますね
登山口 結構きつそうです
登山口には何人登山したかをカウントするカウンターがあります
おそらく登山者の数で整備する金額の費用対効果を図るのでしょうね
城まにあとしてはカウンターをたくさん押して整備に一役買いたいところですが、ずるはいけません。一回押しました
山を登るとすぐに何かのお墓らしきものが・・・
登山者も私しか居ませんし超怖いですね
登山途中、結構険しいです
さすが天然の要害
やっとの思いで頂上。
頂上には物見櫓が復元されています
この櫓が遠くからも山頂に見え、まるで天主のように見えますが櫓です
坂祝町のシンボル猿啄城から見る眺めはとっても美しいものでした