2014年12月29日

城まにあ 【織田信長美濃攻略編13】岐阜県坂祝町 猿啄城(さるばみじょう)


永禄8年(1565)織田信長が犬山城を攻略し尾張を統一すると、加治田城(岐阜県関市)の佐藤忠能織田信長に内通します。そのため、加治田城が孤立しないよう犬山城から加治田城までの間にある城を攻略するため東美濃に侵攻します。

この東美濃侵攻には佐藤忠能支援の目的だけではありませんでした。このころ織田信長に圧されぎみの斉藤龍興は、織田をけん制するために甲斐・武田信玄に近づき支援をしてもらおうとしていました。
そこで、東美濃に進出し、斉藤と武田の連絡を分断するとともに、武田家と対峙している織田と婚姻を結び同盟関係にあった恵那・遠山家との連絡・連携を密にする目的があったのです。

まず織田信長は伊木城の伊木清兵衛羽柴秀吉に調略させ(城まにあ 伊木城参照)、鵜沼城の大沢和泉守を攻略します(城まにあ 鵜沼城 参照)そして鵜沼城を本陣として総大将・丹羽長秀、先陣・河尻与兵衛鎮吉とし、さらに東の猿啄城を攻めました


昭和56年に坂祝町教育委員会から発行された「猿啄城史」によりますと、猿啄城は築城年は不明ですが、応永14年(1407)西村豊前守善政が城主であったという資料が残っているそうです
嘉吉元年(1441)西村善政は、自身が創建した大泉寺の正月に斎会にわずかな供回りで参加した隙を、かねてから猿啄城を狙っていた土岐一族である田原左衛門頼吉につかれ、猿啄城を攻められ落城、善政は討死します。

その後廃城となっていましたが何代か後の田原左衛門(代々名前を世襲か)が築城しなおし田原家の居城となっていました。
しかし、天文16年(1547)そのときの当主であった田原左衛門が大泉寺へ行った隙を突いて一族の家臣であった多治見修理が謀反を起こして攻め込み田原氏を滅ぼします

まさに西村家から田原家が奪った方法そのままで田原家は滅ぼされてしまうんですね〜 
因果応報です

猿啄城を奪った多治見修理は、それ以後18年在城し、弘治2年(1556)の長良川の戦いでは斉藤義龍側に名前があります。

猿啄城を攻めた丹羽長秀河尻鎮吉は、天然の要害であった為に攻略は難航しましたが多勢に無勢だった為に多治見勢は力尽きて落城。多治見修理は家族・家臣を残して逃走。敗残兵は堂洞城(岐阜県関市)へ逃げ込みました。その際、家臣の多治見与蔵は三国志の趙雲のごとく、幼君を抱いて敵中を突破した逸話があります。

猿啄城を攻略した織田信長は戦勝を記念して勝山城と改めました。そして、先陣として活躍しました河尻与兵衛鎮吉(後の河尻秀隆)を城主とします。その後、河尻秀隆は天正3年(1575)武田家に落ちた岩村城の攻略に大きな功があり、天正10年(1582)まで岩村城主として5万石を領します
勝山城は河尻秀隆が岩村城に居を移したことと、対武田家の軍事的な拠点としては不要となったため廃城となりました

坂祝町唯一の城、猿啄城 攻略してみました!!

坂祝町を東西に走る国道21号線沿いにある看板に沿って車を進めると案内板があります
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この近くまでは車でいけますね

登山口 結構きつそうです
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登山口には何人登山したかをカウントするカウンターがあります
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おそらく登山者の数で整備する金額の費用対効果を図るのでしょうね
城まにあとしてはカウンターをたくさん押して整備に一役買いたいところですが、ずるはいけません。一回押しました

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山を登るとすぐに何かのお墓らしきものが・・・
登山者も私しか居ませんし超怖いですね

登山途中、結構険しいです
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さすが天然の要害

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やっとの思いで頂上。
頂上には物見櫓が復元されています

この櫓が遠くからも山頂に見え、まるで天主のように見えますが櫓です

坂祝町のシンボル猿啄城から見る眺めはとっても美しいものでした

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posted by 塩谷建設株式会社 at 09:42| Comment(0) | 岐阜県各務原市・坂祝町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

城まにあ 岐阜県各務原市 八幡山城

各務原市蘇原に「加佐美神社」がありますが、その北側の山頂にかつて「八幡山城」という城が在ったそうです

加佐美神社は地元では有名な神社みたいですね
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結構大きい神社です。


八幡山城についてはあまり記載されている資料がありません。

昭和59年 小林義徳氏が著した「蘇原の歴史」にかろうじて

・人見清蔵が城主だったのだが斉藤龍興に攻められ城を陥とされた。
・文禄3年(1594)人見清次が八幡宮に25石の領土を寄進した

この2つしか記載がありません。

ここで考察ですが、ふもとの加佐美神社との位置関係から、加佐美神社の詰城だったならば人見氏は加佐美神社の宮司だった可能性がありますね
また、八幡山城が先に建てられその後に加佐美神社ができたとしたら、美濃国守護・土岐氏は八幡宮を崇拝していたので八幡山城に入ったのは土岐の一族か重臣であった可能性もありますね

このあたりは今後研究が必要ですね。

斉藤龍興に攻められたのは、織田信長の美濃侵攻の際、織田方に寝返った為に攻められたのではないでしょうか?


なんにしろ研究を要しますね

とりあえず登ってみました

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登山道など無く完全に只の山です

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これは「掘り切り」の跡でしょうか?

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山頂に石垣が在りましたが、これは城ではなく後から作られた物っぽいですね


まだまだよくわかってない城ですね
posted by 塩谷建設株式会社 at 19:16| Comment(0) | 岐阜県各務原市・坂祝町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月27日

城まにあ 岐阜県各務原市 松倉城

新しくできた各務原大橋を南に渡ってすぐの信号を右に曲がった堤防沿いに松倉城がありました

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堤防道路を左に下りたところに旧・川島町が立てた案内看板があります

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そして看板の先には、松倉城にあったとされる大樫の木の記念碑があります

昭和57年に旧・川島町から発行された「川島町史」とWikipediaによると

松倉城は天文元年(1532年)加賀国富樫氏の庶流の藤原氏である藤原左衛門頼定が、流浪の末犬山城主・織田信康に仕え尾張・野武城(開明村)城代・坪内又五郎の家を継ぎ、坪内頼定と名を改め築城しました。

頼定の曾孫・坪内利定は、永禄3年(1563年)の桶狭間の戦いに従軍、その他織田信長に直属して功を上げます。
美濃攻略の際は国境の城主として重用され、蜂須賀小六正勝等、有力者の協力を取り付けるために奔走したが難航。木下藤吉郎の手助けをうけました。
永禄9年(1566年)木下藤吉郎による墨俣城築城の際、木材を木曽山中から流し、松倉に加工して再び流し墨俣に送るという重要な役目を担いました。

織田信長の死後、羽柴秀吉と不仲になり、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは徳川家康側につきます。しかし利定は、池田恒興の軍勢に攻められると支えきれず松倉城を焼いて逃亡し、金山城に身を隠しますが、その後徳川家康に仕え松倉城に再び入ります。

慶長5年(1600年)坪内利定徳川家康会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦、関が原の戦いでは徳川家康本陣に属し功をあげます。
この功績により美濃国葉栗郡・各務郡6500石を治める旗本となり、新加納陣屋に本拠を移したので廃城となりました。

敵国との境を守っているときは重要視されましたが、美濃攻略後はあまり目立たなかった感がありますが、地元の地盤を守りきった豪族です
織田信長の部下は羽柴秀吉に代表されるように下克上で出世したイメージがあるのですが、自分の地盤を守ることを重要視した武士も多くいたようですね
posted by 塩谷建設株式会社 at 01:35| Comment(0) | 岐阜県各務原市・坂祝町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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