2015年02月13日

城まにあ【織田信長美濃攻略編17】岐阜県加茂郡富加町 加治田城

岐阜県加茂郡富加町にある梨割山にかつて加治田城という城がありました。

登り口は梨割山の東側に、大弘法師堂がある清水谷公園があります

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ここの奥に「清水寺」という寺があり、

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この寺の手前右側に加治田城への案内板がありました
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昭和55年 富加町から発行された「富加町史 下巻」によると
加治田城は藤原秀郷系の豪族である美濃・佐藤氏の居城であったそうです
築城年は不明ですが、元々陸奥国信夫郡にいた佐藤氏が応仁の乱の際上京し、その一部が美濃に土着したためその頃に築城されたとされていますが、織田信長が攻めてくるのに備えて佐藤紀伊守忠能・佐藤右近右衛門忠康父子が築いたとも伝えられていて、実際のところは不明です。

城主であった記録があるのは佐藤紀伊守忠能が最も古く、それ以前の城主の記録は今のところありません。
佐藤氏は土岐氏に従って各地を転戦しまし勢力を伸ばしましたが佐藤忠能は天文11年(1542)斉藤道三に属して土岐頼芸の大桑城を攻めており、弘治2年(1556)長良川の戦いでは斉藤義龍に属して斉藤道三を攻めています。

永禄8年(1565)織田信長が中濃に侵攻してくると、堂洞城の岸勘解由信周、関城の長井隼人正道利との盟約を破って内応し斉藤軍と戦いました。その際、息子の佐藤右近右衛門忠康が戦死したため、永禄10年(1567)斉藤道三の末子である斉藤新吾利治を信長の命で養子とし佐藤家を継がせました。これは、加治田城が飛騨に通じる要地であったため、腹心を配しそこを抑える必要があったようです。

その後、斉藤利治織田信長について各地を転戦します。姉川の戦い・石山合戦・伊勢一向一揆攻め・手取川の合戦等、主だった戦いに参加し信長の信頼を得ます。そして織田信長が息子・信忠に家督を譲ると織田信忠の重臣となりましたが、天正10年(1582)本能寺の変で信忠とともに討死します。

斉藤利治死後、加治田城は実兄の斉藤利堯(さいとうとしたか)が跡を継ぎ織田信孝(信長の3男)の家老になりました。しかし、天正10年(1582)東美濃で勢力拡大を狙う兼山城主・森長可肥田忠政の米田城に攻めかかり、肥田忠政が加治田城逃げ込むとそれを口実に森長可が加治田城へ攻めかかったため戦いとなりました。(加治田・兼山合戦)戦いは斉藤利堯森長可を防ぎきり引き分けとしましたが、この戦いの後、主家である織田信孝が賤ヶ岳の戦いの前哨戦で羽柴秀吉に降伏してしまったのと、しばらくして斉藤利堯が死んでしまったため統制を失った加治田衆は離散しその多くは森長可に従え、結局 加治田城も森長可の支配下となりました。
その後、森長可が領内の城を見直した際に廃城となったのですが、城下町は宿場町として栄えたようです。


加治田城への道は途中までは舗装され車も通れますが、突然 舗装が終わり山道になります。

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山道はさすが山城だけあって まあまあ登りがいがあります

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でも、ところどころで新しい橋などが作られていて整備されていますね

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これは富加町の整備事業で、間伐材を利用したハイキングコースのようです
階段に使ってある間伐材は表面を粗く削って滑らないようにしてあったり、すごくいい感じですね
これはいい公共事業ですね

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40分程度登ると加治田城につきます。遺構はありませんが案内板がありますね

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加治田城からの夕日
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きれいですね〜

posted by 塩谷建設株式会社 at 18:06| Comment(0) | 岐阜県富加町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

城まにあ【織田信長美濃進攻編15】岐阜県加茂郡富加町 堂洞城

昭和53年に神保朔郎氏が著した「蜂屋の歴史」によると
享保年間に蜂屋頼隆の父が築いたとされます

土岐氏の一族で南北朝の前からこの地に土着していた蜂屋氏は、蜂屋頼隆の代に織田信長斉藤龍興が争うと織田方に寝返り、信長の勧めもあって城を捨て織田方へと合流しました。
蜂屋頼隆が去った後、堂洞城に入ったのが岸勘解由信周でした。

岸氏は元々藤原秀郷の系統であり佐藤姓であったので加治田城・佐藤氏から分かれた一族であったようです
岸信周は天文11年(1542)斉藤道三土岐頼芸の籠る大桑城を攻めたとき斉藤方に名があり、天文16年(1547)の加納口の戦いで織田信秀甥・織田新十郎を討ち取って道三より感状を受ける等、斉藤家の家臣として活躍しました。
また、弘治2年(1556)長良川の戦いでは斉藤義龍側で参戦、義龍死後も斉藤龍興に仕えます
そんな歴戦の勇士でしたので、中濃の有力豪族・蜂屋頼隆が織田家に出奔すると、その地域の雄として織田信長の侵攻に備え堂洞城の守備を任されたようです。

織田信長がいよいよ美濃に侵攻してくるとこれに対抗する為に、関城・長井道利加治田城・佐藤忠能と反信長の同盟をしますが、佐藤忠能の態度がおかしいと感じ、表向きは信長に対抗するために絆を強しようと忠能の娘を自身の息子の嫁にもらいうけますが、その実は佐藤忠能の娘を人質とします。

猿啄城を落した織田信長は、いよいよ堂洞城攻略にかかろうとしますが岸勘解由信周の人物を惜しみ降伏するよう使者を送りますが信周はこれを拒否したので、2000の軍を2手に分けて攻めかかります。
すると、加治田城の佐藤忠能も裏切って攻めてきたのですね〜

城を攻められると岸勢はよく防ぎ耐えており、信周の妻も小桜縅のよろいを着て奮戦するも関城・長井道利の援軍が肥田瀬川で織田信長本体に阻まれて近づけなかったため除々に兵が減っていき、最後は妻子ともに自害して落城。そのまま堂洞城は廃城となりました。
堂洞城を攻略したことで加治田城を孤立から救い斉藤龍興と東美濃を分断することに成功したのです。


そんな堂洞城、行ってみました

あった場所を地図で何回見ても「クレセントバレーカントリークラブ美濃加茂」になります。もしや開発されてしまったのか?
現地情報をくまなく探すと、「クレセントバレーカントリークラブ」の西側に佐久太神社という神社があります。その前の道を西に進み一つ目を南に曲がるとなんと!「堂洞城」という案内看板が!!

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かなり寂れてますが、間違いなく堂洞城の存在を示す看板です。



その道を看板どおりに右に進み、一つ目の左に曲がれる場所で左に曲がりまっすぐ行きます
はっきり言ってすごく狭い道なので、対向車が来たらOUTです。
あと油断するとゴルフ場の中に入ってしまうので気をつけましょう

心細くなっても自分を信じてずーっとまっすぐ行くとゴルフ場に入るゲートらしきものが左にあります

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このゲートの左側に進入路があり、中がハイキングコースのようになっています



え?こんなところがハイキングコース?って感じです。なぜならここは「クレセントバレーゴルフクラブ」のど真ん中です。こんなところハイキングしていいの?って感じですが

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中はこんな感じで整備されているみたいです。実際、3人組の中高年山ガールに出くわしました。



5分くらい歩くとこんな分かれ道が・・・

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案内板も何も無いので「えいや!」とばかりに左に行くと・・・



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なんかあります・・・ 石碑のようです
お札が何枚か立てかけてあり、石碑にも南無阿弥陀仏と書いてあります  こえ〜



でもその後ろに

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ありました!「堂洞城」の案内板です
朽ち果てていて何が書いてあるのか解りませんが、「堂洞城」の文字はわかります

せっかくの城址ですが、ゴルフ場の開発が優先され、壊され忘れられてしまったようですね。
バブルの負の遺産でしょうか?地元の歴史を大切にしてほしいですね
posted by 塩谷建設株式会社 at 15:33| Comment(0) | 岐阜県富加町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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