2014年04月06日

土岐まにあ 後2代美濃国守護 土岐頼明


室町時代、美濃国守護だった土岐氏
守護は11代までというのが通説でしたが


なんと!!美濃国守護がもう一人いたのです

それが、土岐頼明です


昭和63年に渡辺俊典さんという方が書かれた「美濃源氏 土岐氏主流塁代記全」によると、2代目美濃国守護・土岐頼遠光厳上皇に不敬を働いて斬罪されると、そのあとを受けて土岐家惣領となったそうです。✌

土岐頼明初代美濃国守護・土岐頼貞の十一男で、鎌倉幕府8代執権北条時宗弟・北条宗頼の娘が母です

土岐頼明の記録としては
1335年 土岐頼遠に従い、箱根・竹下の合戦新田義貞を迎え撃ちます

1340年には北陸合戦に敗れて信濃へ落ちた脇屋義助(新田義貞の弟)の追討軍の大将となるなど、一族の中でも結構能力のある武将であったようです。😃

そして、1342年に兄・土岐頼遠の斬首により、土岐惣領となるのです

しかしその5年後1347年、楠木正成の子・楠木正行が率いる2万の軍勢と北朝側6万の軍勢が戦った河内四条畷の戦い(大阪府)に北朝側で三千騎を率いて参戦。楠木勢と真正面からぶつかり戦死してしまいます。😖

わずか5年間だったのですが、土岐家の惣領として活躍した頼明でしたが、なぜか岐阜県の土岐氏研究では守護は11代とするのが通例なのです。😖

近代の歴史書にはほとんど記載されておらず、
大正12年に阿部栄之助さんが著した「濃飛両国史」と昭和44年に岐阜県が発行した「岐阜県史 中世」にはかろうじて存在は認めているが、「今は取らず」(とりあえず今は守護に数えない)とされており、そのほかの歴史書はその存在を抹殺しています。

なぜだ?👊

土岐家の黒歴史か?

ポリネーグリフか?

なんにしよ、かわいそうです😖

日本の総理大臣は、1週間ぐらいしかやってない人でも第何代ってつけてもらえるのにね

いつの日か土岐頼明が日の目を見る日は来るのでしょうか?😖
posted by 塩谷建設株式会社 at 22:57| Comment(0) | 土岐氏まにあ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月17日

土岐氏まにあ 第十〜十二代美濃国守護 土岐頼武 頼純 頼芸 


いよいよ土岐氏の最後となりました。


最後から三代はいっぺんにいきます



なぜなら・・・



この辺りはややこしいからです




決してめんどくさいからではありません💧




第9代美濃国守護の政房は、自分が跡目争いで苦労したことにまったく懲りずに長男の頼武より、次男の頼芸を溺愛します



このことに、斉藤妙純が亡くなって宙ぶらりんとなった美濃国の覇権をかけて、有力国人が動きます



長男・頼武には守護代 斉藤利良(妙純の孫)が、次男・頼芸には小守護 長井長弘がついて激しい跡目争いという名の覇権争いを始めます💥



そしてとうとう1517年12月に両派が激突!!
img src="/images_e/152.gif" alt="むかっ(怒り)" width="15" height="15" border="0" />



この戦いでは頼武派が勝利します


しかし、頼芸派はあきらめません。




尾張に亡命していた斉藤彦四郎(妙純の3男)と連絡を取り、1518年再び合戦が起こります👊




ここでは頼芸派が勝利‼

頼武は越前・朝倉家へ亡命します👤


しかし、1519年に土岐政房が死ぬと、越前・朝倉氏3,000の軍勢に護られて頼武が美濃国に侵攻


正木合戦などの戦いに連戦連勝し、頼芸派を駆逐し第十代美濃国守護となりました


この時、長井長弘・斉藤彦四郎は没落します😵




その後少しだけ平和になるが1525年に失脚したはずの長井長弘が頼芸を担いで再挙兵


岐阜茜部で合戦があり、そのまま福光館を占領します。

さらに、長井氏の支援に近江の浅井氏が美濃に侵攻。これを受けた頼武は朝倉氏に救援を求め、朝倉氏は近江の六角氏と連携して浅井氏を牽制します


この混乱は1530年に頼芸派勝利で決着し、頼武は再び越前・朝倉氏へ亡命します


この時、頼芸の後ろ盾であった 長井長弘・長井新左衛門尉(斉藤道三の父)が相次いで死んだので、新左衛門尉の子 規秀(後の斉藤道三)を重用してしまうんですね〜



頼武は亡命したのですが、頼武の子の頼純は大桑城(山県市)に拠って頼芸と対峙していました。頼芸が父・政房の17回忌などをして正当性を主張したのでかなり険悪になっており、1535年ごろには美濃国中が戦火に巻き込まれていました。そんな中、第12代将軍足利義晴により、頼芸が第11代美濃国守護に任命されます



さらに、六角氏が裏切って頼芸派になるなど頼純側が次第に劣勢となり、斎藤道三の調略により祐向城・別府城などの支城が次々と陥落します。このころになると道三は守護なんかどうでもよくなっており、1541年に頼芸を守護のまま尾張に追放してしまうんです。


もうメチャクチャですね💧



1543年に劣勢になった頼純は越前に一旦亡命します。1544年に尾張に亡命していた頼芸と連携して越前・朝倉氏と尾張・織田氏の支援で美濃国侵攻するのですが、この時は斉藤道三の戦術で撃退しました。


さすが、蝮の道三です


1546年に六角氏の仲裁で頼芸・道三と頼純の間で和議が成立します。その条件に頼純の守護就任があったので、頼純が第12代美濃国守護に就任し、頼純・頼芸ともに美濃に復帰ました。


しかし、その翌年、頼純は急死  道三により暗殺されたといわれています。😵



さらに、後ろ盾だった尾張・織田信秀と道三が和睦(この時、信長に濃姫が嫁ぐ)再び頼芸は追放され、美濃国守護土岐家は滅亡するのですね〜







結局、身内同士の争いに道三がつけこんだのですね





その後土岐家は、頼芸の息子頼次が継ぎ、悪名高き松永久秀の家臣となっていたが、滅亡後は豊臣秀吉の馬廻りとして、河内古市に500石の所領をもった


関ヶ原の合戦では東軍に味方し本領を安堵され、徳川家康の旗本になったようです。



まあ、土岐家は足利義満によって滅ぼされたといってもいいのではないでしょうか?



posted by 塩谷建設株式会社 at 23:27| Comment(0) | 土岐氏まにあ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月05日

土岐氏まにあ 九代目美濃国守護 土岐政房

九代目の政房は、実の父親から守護の後継者として自分ではなく弟を推され

しかも、その父が重臣と謀り、弟・元頼に自分を倒すために反乱をさせ、

そのために周辺諸国を巻き込んだ戦争「船田合戦」にまで発展します



なんてかわいそうもうやだ〜(悲しい顔)



さぞや傷ついたでしょうたらーっ(汗)



ひねくれて星を睨んでもしょうがありません。ぴかぴか(新しい)






唯一の理解者は船田合戦で共に戦った義理の兄で最大の後ろ盾である斎藤妙純だけでした




その妙純も六角氏との戦いで戦死してしまいますがく〜(落胆した顔)




父の愛もなく、理解者も失った政房はとうとうグレました



まずは悪い友達とつるみます

小守護代 長井長弘です。パンチ


この長弘が松浪庄九郎(斉藤道三の父)を家臣にし、断絶していた西村家を継がせたりして重用し、力をつけさせてしまうんですよねふらふら




さらに、やっと治まった美濃国をまた混乱に陥れます



嫡男・頼武を差し置いて、弟・頼芸を後継者に推し、また後継者争いをさせるんですよね〜



案の定、美濃国は混乱。松浪庄九郎改め長井新左衛門尉とその息子斉藤道三に国盗りのチャンスを与えてしまうんです




思えば歴代の守護の中で、一番かわいそうな守護だったのかも




なにせ、土岐氏滅亡の直接的な原因をつくったのはこの政房なのですふらふら
posted by 塩谷建設株式会社 at 21:32| Comment(0) | 土岐氏まにあ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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