2013年10月25日

合戦まにあ 美濃錯乱2 斉藤利永・妙椿


斎藤宗円が暗殺されるとその息子利永が後を継ぎ、父親の仇・富島氏を戦いの末に駆逐し守護代になります手(チョキ)

利永は和歌をよくし、禅宗にも深く帰依しており、武勇に優れて清廉な武将であったとされ、若くして死ぬとその死を惜しむ記録が残されていました。


また、戦いの最中で加納城をはじめ、多くの城を造っています



その利永を継いだ息子・利藤の後見役として利永の弟・妙椿が斉藤家を仕切ります


妙椿の代に応仁の乱がおこるのですが、斉藤氏と富島氏の争いは続いており、

土岐氏・斉藤氏が西軍の山名氏に味方したのに対し、


富島氏・長江氏は反抗して細川家の東軍につくのですね



しかしこのころの斎藤氏と富島氏の勢力差は歴然としており、



斎藤氏との戦いに敗れた富島氏は美濃から逃げていき、20年に及ぶ美濃錯乱は終息しました。わーい(嬉しい顔)




富島氏を追い出した斎藤妙椿は国内敵無し手(グー)




西軍の武将として美濃国内の荘園を次々搾取し勢力を強め、尾張や伊勢など、周辺諸国まで勢力を伸ばすんですねわーい(嬉しい顔)


しかしこの後、斉藤氏が内部で争いをおこし

文明美濃の乱→船田合戦→頼武・頼芸の家督争い→斉藤道三による土岐氏追放→長良川に戦いと美濃は混乱し続け、織田信長の侵攻を招くんですね





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2013年10月24日

合戦まにあ 美濃錯乱1 斉藤宗円


土岐康行の乱以後、土岐氏の勢力が弱まりその他の国人が勢力を伸ばしました。


守護の土岐氏は幕府の要職にいたことから、京都に詰めており美濃は留守がちで


美濃の政治は守護の代理である「守護代」に任せていました


その守護代を、土岐氏以外の国人に任していたので、国人たちの力がさらに強まりとうとう守護を上回りつつあったのですね〜ふらふら



そんな国人たちの中でも、富島氏・長江氏一族と斉藤氏が特に力をつけ、守護代の座を奪い合いうんですね〜パンチ




この20年続く一連の美濃覇権争いを「美濃錯乱」といいます




第七代美濃国守護 土岐頼益は若干9歳で守護職になり、その当時守護代を担っていた富島氏も若年であったため、土岐家の重臣であり、有力な国人でもあった斉藤祐具の発言力が大いに高まりました。

祐具は美濃国内の有力国人との政略結婚でますます勢力を伸ばすんですね



そして、いつかはクラウン・・・じゃなかった 守護代 と、守護代になるのが夢になるんですね


その夢は息子の宗円に引き継がれます



「宗円、美濃の星になれ」

「とうちゃん!」

星一徹・飛雄馬 親子に近いですね。たらーっ(汗)



そして息子の宗円は父の教えを実行します


文安元年(1444年)閏6月19日、なんと、京都の土岐屋形において土岐氏の守護代である富島氏を殺害してしまうんですね〜がく〜(落胆した顔)


宗円「とうちゃん、おれやったよ」ぴかぴか(新しい)


祐具「そうじゃねえだろ!」むかっ(怒り)


この時、逃亡に成功した富島八郎左衛門は、土岐氏被官3名を捕らえて殺害、守護代邸に放火した後、管領畠山持国に事の次第を訴えたが、相手にしてもらえなかったため、一族郎党挙げて美濃に下国、7月10日、垂井で土岐軍と戦い勝利するんです。


まあ、当然怒りますよねあせあせ(飛び散る汗)




更に8月6日、10日の両日、斎藤氏の館に攻め寄せたが、守護土岐持益及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となりました。


この後、富島氏に替わり美濃守護代となります。


悲願達成ですexclamation×2手(チョキ)



このたくらみには守護の土岐頼益も絡んでいたようですね


文安3年(1446年)7月5日、宗円は守護方の軍勢を率いて垂井付近の富島氏の陣を攻め、討死する者数百人という激戦を展開しました。宝徳元年(1449年)9月10日にも再び富島氏との合戦が起きるが両方とも勝敗はつきませんでした。


ここから土岐頼益・斉藤宗円VS富島氏の戦いが20年にわたり続くのです



しかし、宗円は宝徳2年(1450年)9月1日、京都の山名氏邸から守護代邸に帰る途中、近衛油小路で富島氏の手の者により暗殺されてしまうんです。がく〜(落胆した顔)

享年62。下剋上を行った者として京都市民の間では評判が悪く、その死を悼む者は少なかったといいます。



自業自得ですねパンチ
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2013年09月18日

合戦まにあ 船田合戦・その後


1年にも及ぶ船田合戦の後、美濃はどうなったのでしょうか


お飾りの守護代・斎藤利藤は石丸方を支援したため6月に隠居させられました。

まあ、当然ですね🐱

そして、復権できないまま2年後の明応7年(1498年)に亡くなりました。



元凶の土岐成頼も明応6年(1497年)に死去しました。



勝利した妙純は京極高清の要請で近江の六角高頼討伐に向かいます。

借りをつくりましたからね、断れません。💧




しかし、高頼は蒲生貞秀らの支援を受けておりなかなか手強く、対陣したまま和睦を結び、美濃へ撤退しようとしました。


ところが



明応5年12月7日(1497年1月10日)、撤退途中に土一揆が蜂起!!✊



不意をつかれた妙純は嫡男の利親以下1000余名と共にあっさり戦死してしまいます。😵




孫の勝千代(利良)は幼少のため、次男の又四郎が持是院家を継承、彼の死後は弟の彦四郎が継いで守護代職も継承しましたが、永正9年(1512年)に政房と対立して美濃から追放されてしまい、持是院家は衰退しました。


ちなみに守護代の斉藤本家に対し、妙椿の系統を持是院家といいます



一方、土岐氏は再びお家騒動を起こしやがりました。👊



政房は自分がやられて美濃が混乱したにもかかわらず、嫡男の頼武より次男の頼芸に後を継がせようとしました。


まったく過去に教訓を得ていません
土岐成頼が土岐元頼に継がせようとしたのもうなずけますね。😠




当然、反発した頼武に斎藤利良が就き、頼芸には小守護代長井長弘と家臣の長井新左衛門尉が就いたことから美濃に再び合戦が繰り広げられてしまいます。


懲りない面々ですね


でも、この時代になると守護・土岐氏は完全に美濃の国人にとってはお飾りで、
跡目争いといいつつ、実は国人たちの権力闘争だったのですね

今回は衰えた斉藤家と長井家の権力闘争です






永正14年(1517年)に頼芸派が勝利して頼武は越前に逃れました。長井家の勝利です


しかし、永正16年(1519年)、政房が死去すると、これを好機と見た頼武側は再度反乱を起こし、朝倉孝景の援助で美濃に侵攻します。ここで頼芸側を圧倒し、頼武は守護の座につきました。


これで終結したかに見えたのですが、さらに大永5年(1525年)に長井長弘が再挙兵、5年後の享禄3年(1530年)に再び頼武は越前に追放されます。



そして長弘が天文2年(1533年)に死去、長井氏も衰えた後に斎藤道三が台頭することになります。



道三のことを蝮だのなんだの言いますが 美濃を盗られたのは自業自得ですね
posted by 塩谷建設株式会社 at 13:34| Comment(0) | 船田合戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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