2016年03月06日

合戦まにあ 承暦濃州の乱

昭和48年に地元の歴史家・林春樹 氏が著した「長森史考」によると、

承暦3年(1079)源頼義・義家が「前九年の役」で戦功を上げ信望を集めると、それを快く思わない他の源氏の一族との主導権争いが起こりました。

要は「ちょっと活躍したからって、源氏の棟梁みたいな顔してんじゃねえよ」的な発想ですね

そんな源義家に不満を抱いていた源氏の中で行動を起こした者がいます
それが、美濃の源氏、源満仲の弟・源満政の曾孫・源重宗源頼光の孫・源頼国の子・源美濃守国房(土岐氏の祖)だったのです。
源重宗源国房は打倒源頼義・源義家で兵を集め因幡山(稲葉山・現 金華山)に城を構えて立て籠もり叛旗を翻します
そこで時の天皇・白河天皇は源国房・重宗追討の詔を下し、源義家を総大将にして追討軍を美濃に向かわせました。
(源重宗と源国房との間に領土を巡って諍いがあり、それに源義家が介入したという説もあります)

源義家が戦いに来たことで重宗・国房側は意気盛んになります
しかし、戦術面で対立してしまうのですね

源国房は因幡山・長良川で待ち構え、長征で疲れた義家軍を撃破することを主張します。
しかし、源重宗は城を出て不破黒血川を防衛線にして迎撃することを主張し対立します

両者が主張を譲らず不一致のまま軍議はまとまりませんでした
しびれを切らした源重宗が独断で手勢3千を引き連れて黒血川へ進撃してしまいます

進撃中、源重宗は杭瀬付近で義家軍がすでに黒血川を渡り終えたと聞きます。そして軍議に時間を費やしたことを悔いるのですね
しかし後の祭りです、ここに来てもう引き返せないので義家軍7千に対し青野ヶ原で突撃するのです。
が、奥州戦線を戦ってきた義家の精鋭に一蹴され、源重宗は討死してしまいます。

残された因幡山の源国房は残された手勢1千では勝てないとあきらめ、源重宗に責任を押し付け降伏。阿波国へ流されます。
永保年中(1081〜1083)に許されて鶉郷に戻ったようですね。

地元の人も知らない源義家の戦いが岐阜にはあったんですね〜

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2015年03月09日

合戦まにあ【織田信長美濃攻略編20】稲葉山城攻略2


河野島の戦いの後、両家は1年ほどにらみ合いが続きます。これは今だ斉藤龍興が相当の力を持っていることを知った織田信長が力攻めをやめ調略によって斉藤家の力を削ぐ戦略に方針転換したためで、主だった戦いはありませんでした
この間、織田信長は美濃方面への軍事行動が無い分、滝川一益に命じた北伊勢攻略に力を入れ、伊勢長島の一向一揆を攻めます。伝記とかでは足利義昭が描いた包囲網で、浅井朝倉と呼応した本願寺顕如との戦いが始まってから伊勢長島一向一揆と戦った感じでしたが、実はこの頃から長島一向一揆との戦いは始まっていたのですね〜

伊勢出兵中に、稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の俗に言う西美濃三人衆が調略に応じ信長に人質を差し出すことを申し出てきました。氏家卜全安藤守就は斉藤家でも日根野弘就、竹腰尚光、日比野清実、長井衛安と共に斉藤家六宿老と言われた有力者で、この内応は斉藤家の崩壊を意味していました。

この申し出を長島の戦場で知った織田信長はすぐさま兵を取って返し美濃に攻め入ります。そして西美濃三人衆の人質が届く前に稲葉山の南、瑞龍寺山の瑞龍寺城を攻略し陣を構え、斉藤軍が敵か味方かと言っている間に井ノ口の町(現・岐阜市中心部)に火をかけ、はだか城にしてしまいました。

この機動力が織田信長の強さです。自軍より多い軍の急所を見極め、寡兵ではあるが機動力のある精鋭部隊で急所を急襲するという戦術を父・織田信秀のころから織田家が得意としている戦術でした。織田信長の対今川戦、美濃侵攻戦もほとんどが得意の寡兵での機動力戦で、奇跡といわれた桶狭間の戦いも戦術的にはいつもどおりの織田軍の戦いでした。しかし、今川義元を討取るという大戦果が戦いを神格化したのですね。

突然城を急襲された斉藤龍興は稲葉山城へ籠りますが、すっかり取囲まれたことと西美濃三人衆が寝返ったことで意気は上がらず、結局降参して長良川を下り斉藤家の勢力が残る南濃を抜けて伊勢長島一向一揆に合流しました。
この際、木下藤吉郎堀尾茂助(後の堀尾吉晴)に案内されて稲葉山に奇襲したという話もある。

こうして稲葉山城を落し、さらに南濃に兵を進め高桑城(岐阜市柳津町)高桑氏・本田城(瑞穂市)日根野弘就、今尾城(海津市)中島氏らを攻略しここに美濃を制覇したのでした。



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2015年02月26日

合戦まにあ【織田信長美濃進攻編19】岐阜市 稲葉山城攻略1

永禄8年(1565)中濃に兵を進め堂洞城を攻略した信長は、その後可児郡金山城を攻略し、金山城を蓮台城主だった森可成に守らせ稲葉山城の斉藤龍興と武田信玄との連絡を困難にすると共に、自身は信玄に近づき信玄の息子・武田勝頼に信長の妹婿・遠山直廉の娘を養女として嫁がせ婚姻関係を持ち、斉藤龍興を孤立させます。そしていよいよ稲葉山城の攻略に入るのですね〜

2012年 横山住雄氏が著した「織田信長の尾張時代」によると

稲葉山城攻略にあたり進攻ルートとしては、前年に奪った堂洞城や内応した加治田城から攻める東濃ルートと、羽柴秀吉に改修させた墨俣城から長良川沿いを攻めあがる西濃ルートが考えられました。

しかし、織田信長はそのどちらもとらず、父・織田信秀が大敗を記した加納口の戦い(横山氏は天文13年1544年説を取っているが、私は天文16年・1547年と思う)と同じルートで小牧から木曽川を渡って直接井ノ口(現・岐阜市中心部)へ向かう最短だが一番危険なルートを選択します

これは、永禄8年(1565)に足利幕府第13代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人衆に暗殺されると危険を感じた弟・覚慶が奈良から脱出し足利義秋(後に義昭と改名)と名乗って近江矢島に留まっていました。その足利義昭から織田信長に自身を庇護し、上洛して三好と松永を討つよう要請があり、織田信長は供奉(将軍の上洛のお供)することを約束したのです。その為、早急に美濃を攻略し上洛しなければなりませんでした。

ここでなぜ織田信長に要請があったのでしょうか?それは織田家は父・信秀の代から津島港から上がる財力で朝廷や幕府に頻繁に献金しており、上洛した際は足利義輝にも拝謁するなど、非常に朝廷・幕府とのパイプがあったのですね。

稲葉山城攻めを決意した織田信長は、まず永禄9年(1566)4月にまずは危険な河野島(現・岐阜県岐南町付近)を避けて上流の前渡(現・岐阜県各務原市前渡)から木曽川を渡って加賀美野(現・岐阜県各務原市・現在の航空自衛隊岐阜基地あたり)に陣を構えますが、斉藤龍興が旧・薄田氏の居城であった新加納城に着陣したのを見て、そのすばやい反応にまだ美濃衆は手強いと感じ、戦をせずに帰陣します。

その後、8月にもう一度進攻、今度は危険を顧みず難所である河野島(現・岐阜県岐南町)から最短距離で稲葉山城を直撃しようとしましたが、斉藤龍興が即座に兵を差し向けたため、信長は兵を引いて河畔に陣を張りました。
このときの状況が、安藤定治 日根野弘就 竹腰尚光 氏家直元の4重臣が快川紹喜らしき人に当てた手紙である「中島文書」にかかれています。これによると、風雨のため、木曽川の水嵩が増していて両軍とも戦えないで居たが、翌日の未明に水が引いたのと同時に斉藤龍興が奇襲を仕掛けたため、不意を疲れた織田方は総崩れとなり、川に逃げ込んで多数の死者を出し退却したと書かれています。しかし、「織田信長の尾張時代」の著者・横山住雄氏は、過大な表現でありそこまでの大敗ではなかったのではないか、むしろ本気で斉藤龍興を攻める気は無く、龍興をそのままにして足利義昭とともに京に攻めあがっても大丈夫か確かめたのだとその著書の中でいわれています。結果、まだ龍興には力があり、斉藤龍興をそのままにしては今日へはいけないことが確かめられました。

もう一つ強引とも言える直接攻撃に出た理由は、足利義昭に松永・三好の追手が迫っており、義昭から庇護を求める催促が矢のように来ており、このままだと義昭が織田信長を見限って他勢力を頼りそうだったからです。実際、河野島の戦いの後、足利義昭は織田信長を頼ることをあきらめ近江矢島から越前に移り朝倉義景を頼るのですね。

このことにより、急速に攻める必要が無くなった織田信長は美濃攻めの方針を転換しじっくりと攻略していくのです。
posted by 塩谷建設株式会社 at 23:10| Comment(0) | 合戦まにあ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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