承暦3年(1079)源頼義・義家が「前九年の役」で戦功を上げ信望を集めると、それを快く思わない他の源氏の一族との主導権争いが起こりました。
要は「ちょっと活躍したからって、源氏の棟梁みたいな顔してんじゃねえよ」

そんな源義家に不満を抱いていた源氏の中で行動を起こした者がいます
それが、美濃の源氏、源満仲の弟・源満政の曾孫・源重宗と源頼光の孫・源頼国の子・源美濃守国房(土岐氏の祖)だったのです。
源重宗と源国房は打倒源頼義・源義家で兵を集め因幡山(稲葉山・現 金華山)に城を構えて立て籠もり叛旗を翻します
そこで時の天皇・白河天皇は源国房・重宗追討の詔を下し、源義家を総大将にして追討軍を美濃に向かわせました。
(源重宗と源国房との間に領土を巡って諍いがあり、それに源義家が介入したという説もあります)
源義家が戦いに来たことで重宗・国房側は意気盛んになります
しかし、戦術面で対立してしまうのですね

源国房は因幡山・長良川で待ち構え、長征で疲れた義家軍を撃破することを主張します。
しかし、源重宗は城を出て不破黒血川を防衛線にして迎撃することを主張し対立します
両者が主張を譲らず不一致のまま軍議はまとまりませんでした

しびれを切らした源重宗が独断で手勢3千を引き連れて黒血川へ進撃してしまいます

進撃中、源重宗は杭瀬付近で義家軍がすでに黒血川を渡り終えたと聞きます。そして軍議に時間を費やしたことを悔いるのですね
しかし後の祭りです、ここに来てもう引き返せないので義家軍7千に対し青野ヶ原で突撃するのです。

が、奥州戦線を戦ってきた義家の精鋭に一蹴され、源重宗は討死してしまいます。
残された因幡山の源国房は残された手勢1千では勝てないとあきらめ、源重宗に責任を押し付け降伏。阿波国へ流されます。
永保年中(1081〜1083)に許されて鶉郷に戻ったようですね。
地元の人も知らない源義家の戦いが岐阜にはあったんですね〜

