1966年 大類伸さんが著した「日本城郭全集7」及び昭和61年 岐阜市合渡広報連合会が編集した「岐阜市合渡の歴史」によると、岐阜市曽我屋にはかつて曾我屋城という城があり、土岐氏の支流である曾我屋氏が居たそうです。
両文献によると、曾我屋城は曾我屋六郎頼久が築城したそうです。
頼久は、第6代美濃国守護・土岐頼益の弟・土岐頼名の子・池田刑部少輔益忠の弟だったそうで、のちに土岐頼益の養子になったそうです。
頼久の後は子の曾我屋治部少輔益世が継ぎ、その後を曾我屋民部少輔益豊、さらにその後を子の曾我屋少輔頼豊が継いだそうです
また、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍方に曾我屋内蔵丞家治の名前があったので、土岐家が失脚しても無事に存在していたようです
築城時期ですが、2代目の曾我屋益世が文安元年(1444年)に垂井で戦死しているので、おそらく永享・嘉吉の頃(1429〜1444)ではないかと考えられています
場所ですが、岐阜市立岐阜西中の南に土岐家の守り神・八幡神社があります

そこにある石碑には、下水処理場の設置の為移転した旨が書かれていました

おそらく現在の北西部下水処理場近辺にあったのではなかったでしょうか?
合渡公民館のHPに
「津神社が織田信長の美濃平定の際、曾我屋城と間違われて落とされた」と記載されています

津神社
確かに津神社は参道が今の合渡小の西まであったらしく、かなりデカかったようですが・・・
間違われてしまうということは、曾我屋城は津神社より・・・(;´д`)両者ともトホホですね
posted by 塩谷建設株式会社 at 18:09|
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