2017年03月20日

城まにあ 岐阜県岐阜市 木田城

岐阜市立木田小学校より東側に中世の遺跡があるそうです

その場所は
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堤防沿いにある 福満神社から

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同じく堤防沿いにある佛心寺近辺のようです


昭和57年に西郷の歴史刊行会が編修した「西郷の歴史」によると、
源美濃守満政の曾孫・源重宗が美濃に土着し、その次男・重長が東有武郷に住んで木田三郎を称したのが始まりだそうです。
その一党は方県郡に広がり、平清盛の専横に対し以仁王をかついで兵を挙げた源頼政が、兵を挙げる前に各地の有力源氏の名を以仁王に上げた中に木田三郎とその子開田判官重国の名が、安食次郎重頼の名と共にあったそうですので、結構勢いがあったのでしょう
木田三郎重長は源行家が平重衛に敗れた「墨俣合戦」で戦死してしまいます
その後、承久の乱では息子の開田重国とその子の木田又太郎重知、甥の木田太郎重季が上皇側に味方して戦死したようです。

平成27年 木田隆夫氏が著した「木田家のルーツを尋ねる」によると
室町時代、木田氏は木田義宜の代で源氏の地場である摂津国多田郷(大阪府)に移り塩川氏に従ったそうです。応仁の乱では摂津・河内(大阪府)阿波(徳島県)の賊を退け子の木田重正と共に戦功を挙げた記録があります
しかし、永禄の頃(1558〜1570)塩川氏が没落すると木田善氏の代で帰農し、その後、江戸時代・万治の頃(1658〜1660)木田重躬の代で両替商を始めたそうです

おそらく、多田に移った室町のころに廃城となったのではないでしょうか?
現在はなにもありません。また、このあたりは洪水が繰り返し発生したので、川の中かもしれませんね
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2017年03月01日

城まにあ 岐阜県大垣市 曽根城

岐阜県大垣市の北部に曽根町という地域があります
そこにある、華渓寺というお寺がかつての曽根城であったようです


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華渓寺


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正門前に城址を示す石碑があります

昭和43年に大垣市が編纂した「新修大垣市史」によると、築城者は稲葉伊予守良通(一鉄)が元禄元年(1558)に築城したとありますが、大垣市教育委員会が立てた現地看板には稲葉良通の祖父・稲葉通冨が創建したとあります

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現地案内板

他の書籍でも、稲葉一鉄が築城したと書かれているものが多いと感じます。
そこで勝手な推察ですが、稲葉一鉄は、大永5年(1525)に起った牧田合戦(近江・小谷城主 浅井亮政が美濃に大規模進攻し、土岐頼芸が迎え撃った戦い。結果引き分け)で父・稲葉通則と5人の兄弟が全員討死してしまい急遽家督を継ぎました。しかし、当時一鉄は11歳でしたので祖父の稲葉通冨と叔父の稲葉忠通が後見をしたそうです。その際、祖父・稲葉通冨が一鉄の為に屋敷のようなものを建てたのではないでしょうか。また、稲葉通富は元々伊予(現・愛媛県)の名家 河野氏の一族で、武者修行で各地を巡り美濃を訪れた際、土岐成頼が客遇したためそのまま土着し稲葉姓を名乗った(養子縁組した?)そうです。案内板の創建とはその意味かもしれませんね。
 資料では曽根城は永禄元年(1558)に稲葉良通(一鉄)が築城したとあります。一鉄が44歳頃の時なので、祖父に建ててもらったというのは考えにくく、後見していたので資料が錯誤したか、もともと通冨の立てた屋敷があったと考えられますね。 あくまで推測ですが・・・

 永禄元年(1558)に曽根城を築城し、美濃斉藤家に従い西美濃三人衆といわれるまで勢力を拡大した稲葉一鉄ですが、永禄10年(1567)に織田信長に味方し,信長の美濃攻略に加勢します。その後、観音寺城の戦い、姉川の戦いをはじめ織田軍の主要な戦いに参加し戦功をあげ、約五万石を領すまでになります。
 天正7年(1575)稲葉一鉄は息子・稲葉右京亮貞通に家督と曽根城を譲り自身は美濃清水城へ移ります。さらに天正10年(1882)には貞通がその子・稲葉侍従典通に曽根城を譲ります
 天正16年(1588)稲葉家が郡上八幡城へ国替えになると、西尾豊後守光教が城主になり2万石を領します。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西尾光教は東軍に味方して美濃の先導役をし、戦後その功により揖斐城を与えられ3万石の領主として揖斐城主となり、揖斐陣屋を造って移ります。そのため曽根城は慶長6年(1601)廃城となりました

この城は、春日の局の父である斉藤利三が明智光秀に仕える前にいた城としても有名で、隣に斉藤利三の屋敷跡が残っていますね



 


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2017年02月11日

城まにあ 岐阜県岐阜市 加野城

1966年に大類伸さんが編纂した「日本城郭全集7」によると、藍川橋の北に岐阜市加野という地名があり、そこに加野城という城があったそうです

しかし、「日本城郭全集7」には、長良川と武儀川の合流点の東側、犬上街道を東進し長良川を渡ったところとしか書かれていません。
犬上街道とは、別名「上街道」や「木曽街道」といい、名古屋から小牧−犬山を通って可児御嵩に通ずる尾張藩が独自に築いた街道で、現在の国道41号線です。となると、国道41号線は長良川の遠く南側にあり、木曽川にも接していません。どこまで行っても長良川を渡れないのですね〜
でも長良川に架かっている藍川橋の北西側に加野と言う地名がありますのでたぶんここのことではないでしょうか?

この地区に埋蔵遺跡は2箇所
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加野南遺跡

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加野西畑遺跡

の2箇所です

加野南は加野地区の南側堤防沿いにあります
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周辺は畑ですね〜

西畑遺跡は加野の中心部にあります
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ちょうど新しくできた高架道路との交差点近くですね


ではどちらが加野城でしょうか
「日本城郭全集7」にはこのような記載があります
加野二郎の居城 加野二郎は山県源氏・山県国政の孫
承久の乱(1221)で宮方となり、大井戸の渡しで大将として守ったが、同族の粟野二郎国光・加納二郎に討たれた」

山県国政の孫であれば源氏ですね
源氏と言えば「八幡神社」です 
と安直に考えて探してみますと、なんと!2つもありました


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一つは加野地区の北側にある番場山の南麓に「加野八幡神社」がありました
正法寺の東ですね

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もう一つは新しくできた番場山トンネルの入り口西側に「石清水八幡神社」があります

昭和57年に藍川校下十周年記念実行委員会さんが編集した「ふるさと藍川」には
加野八幡神社は設立は不明ですが、天正元年(1573)に森村因幡守重義が釣鐘を奉納し、天正17年(1589)に大野治郎兵衛・大野治右衛門が再建したとあり、古くからこの場所にあった感じです
一方、石清水加野神社は江戸時代の終わりごろ、祭神が洪水で流れてきたので見つけたところに神社を建てたものらしいです
と、言うことは加野八幡神社が地場の神様っぽいですね。その場所からより近い加野西畑遺跡から北東あたりがその場所でしょうか?

そして前述の加野二郎ですが、祖父・山県国政は清和源氏で酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で有名な剛の者・源頼光の系列で、和歌で有名な源頼綱の三男・源国直(美濃の領地に土着し山県国直と名乗る)の息子です。
その孫に、粟野二郎国光の名は記録があるのですが、加野二郎はありません。

そこで別の資料を調べると、平成23年に清水進さんが編纂した「清水姓の歴史」に、
「揖斐川町清水にいた清水頼兼(山県国政の四男)清水頼高(清水頼兼の長男)が承久の乱(1221)で宮方についたが、同族の粟野次郎国光加野二郎に討たれた」とあります・

なんと!加野二郎は討たれたほうではなく討ったほうのようです!記載されていた「加納二郎」が加野二郎の間違いのようです

ここで、粟野国光は山県国政の長男・飛騨瀬国成の息子で、承久の乱で討たれた清水頼兼とは叔父・甥の関係ですね。粟野国光が幕府側について同族の武将を討ったことは正しいようです
では、国光と一緒に清水頼兼・頼高親子を討った同族の加野二郎とはだれでしょうか?

粟野国光には野頼清という兄弟がいました。私はこの頼清が加野二郎ではないかと考えています
「加野」と言う地名の由来は、元々の地域に「野」を加えたので「加野」と呼ばれたそうです。この「野」とは野原と考えていたのですが、じつは「野」という地名があり、当時は領地の地名を苗字として呼ばれたので、そこを領地としていた頼清は野頼清とよばれたのではないでしょうか。ちなみに頼清の子孫は「野」や「野上」を名乗ったそうです。これをかんがみても、加野には「野」と言う地域があり、そこを領土とした頼清が「野頼清」を名乗って加野城を築き土着したと考えてもよいと考えます

まあ、私の勝手な推測なので違ってたらすいません

posted by 塩谷建設株式会社 at 23:51| Comment(1) | 岐阜県岐阜市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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